愛や恋を成就させるだけなら、「結婚」というスタイルをとらなくても、「同棲(リビング・トゥギャザー)」で十分だろう。
子どもを生み育てるのだって、入籍していない二人でもできる。欧米には、同性愛のカップルが養子を育てている例もある。
では、なぜ「結婚」という契約が、わざわざ必要なのだろう。
お互い不自由になるのを重々承知して、そこまでして一緒になる理由。
国家という組織にとってのマネジメント手段である、という見方もある。
動物のように完全にフリーセックスされたらたまらない。子どもが誰の子か、まったく分からなくなる。管理するには、離婚も認めた上で、やはり制度上は「結婚した家族」を基本単位にしたほうが楽だということ。
それも、あるだろう。
でも、私はこう考える。
「結婚」という契約によってお互いの自由を制限することで、逆にクリエイティブになれるのではないか、と。
お金があって何でも自由に買えちゃったら、何か工夫して創ろうとか誰かから借りてこようとは考えない。制限されることで、より人生が面白くなるということ。
また、正解同士が結婚するわけではないから、常にベクトルは別々に向くわけで、その葛藤こそがお互いを成長させるのではないか、と。
とくに子どもが生まれたら、恋人時代の延長で仲良し夫婦を演じるわけにはいかない。自分自身がどう育ったかが子育てに色濃く影響するから、まったく異なるバックグラウンドを持って育った二人の教育観は本来違うはずだ。
だからぶつかるし、ケンカにもなる。
ようは、毎日毎日、無限の「ベクトル合わせ」なのである。オレはこう、相手はこう、なら間を取って、こう・・・どちらかが正解なのではなく、修正主義でいかないと破綻する。
つまり、結婚とは、「修正主義」を学ぶための、またとない研修なのだ。
夫であれば、妻から学ぶ。子どもからも。もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんからも。
会社なら人事部がタイミングをみて研修をセットしてくれるが、人生の研修は、タイミングを自分で決めなければならない。
あなたも、そろそろ「よし、いっちゃえ!」のタイミングなのではないですか?
●次回は「手帳」をお届けします。
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藤原和博 Kazuhiro Fujihara


